日本橋モラロジー事務所

NIHOMBASHI

MORALOGY

日本橋モラロジー事務所の沿革

日本橋事務所の今昔 『木村好雄』編

『日本橋事務所 今昔』

本年7月24日に日本橋事務所は開設70周年を迎えます。そこで、私が教わったり体験した日本橋事務所の歴史やエピソード等をご紹介したいと思います。現在、東京協議会には山梨の二つの事務所も含めて31の事務所があります。皆さんは日本橋事務所が他の30の事務所、もっと大げさに言えば全国のほとんどの事務所と違うところがあるのはご存知でしょうか。それは行政市・区の名称をつけていないことです。今から20年前、モラロジー研究所がグランド・デザインを発表し、全国の事務所が行政との連携が可能となるよう、郡・市・区単位に統廃合されました。従って事務所名も行政区の名称に、例えば、浅草北、浅草中央、浅草南の各事務所は統合し台東事務所に、墨田西、墨田南、向島事務所は墨田事務所に統合・名称変更されたのです。ですから日本橋事務所も東京中央事務所に変更されるところでしたが、当時の先輩達が本部に行って、日本橋は中央区よりも、東京都よりも古いのだから日本橋のままにしていただきたいとお願いしたところ、お江戸日本橋ですね、とご理解いただき、変更しなくてすんで現在に至っているのです。

日本橋事務所 今昔②

4月21日に、日本橋事務所の会員総会終了後、代表世話人歓送迎会が行われました。ここで日本橋事務所開設50周年のとき作成した『沿革史』から歴代代表をご紹介します。初代は武井泉三郎氏で、以下二代田中治郞左衞門氏、三代井上道三郞氏、四代大久保定七氏、五代渡辺幸蔵氏、六代谷島正次郎氏(以上故人)、七代木村好雄、八代井上照悟氏、九代武井康臣氏、十代飯島孝夫氏で、4月1日付で就任した大久保章氏は11代目の代表世話人になります。 今年が事務所開設70周年ですから丁度10人の代表が精神伝統から委嘱を受け、責任者としての任務に取り組んできたことになります。現在、事務所の責任者を「代表世話人」と呼んでいますが、これは平成4年に私が就任したときからで、それまでは「主任」、それ以前は「世話係」と呼んでいました。私はこの「委嘱」という言葉について、廣池理事長から「委嘱状」を授与された際に、『この小さな委嘱状には創立者と先人先輩の魂が込められています』と述べられたことを思い出します。

日本橋事務所 今昔③

かつて『東京ブロックだより』を、前号まで『都協だより』を掲載していたこの場所に、大久保章代表の許可を得て、『日本橋事務所今昔』をしばらく蓮載させていただきます。 今回は「事務所」の変遷を取り上げます。「事務所」の前身は、昭和2年、東京渋谷に設立された「報恩協会」です。これは廣池博士の神・伝統に対する感謝報恩の精神とその姿に深い道徳的感化を受けた人々が、「私たちも犠牲を払わせていただきたい」と自発的に組織して、モラロジー研究所の承認を受けて開設したものです。しかし、昭和11年には廃止され、日本橋、芝、本所、浅草に「開発連絡事務所」が設置されました。そして、戦後、開発活動が再開されると、昭和22年に中央連絡事務所(世話係に武井栄一氏)として復活し、中央地方世話事務所、日本橋地方事務所と変更されています。現在の事務所も、維持員や会員の「心の拠り所」としての基本的性格は報恩協会と変わっていません。

日本橋事務所 今昔④

7月22日に日本橋事務所は東日本橋三丁目の東日パークビルから、東日本二丁目の岩下ビルに移転し、24日から新事務所にて活動を開始することになりました。日本橋事務所の開設日が丁度70年前の昭和22年7月24日ですから不思議な感じがしてなりません。昭和16年まで「開発連絡事務所」だった日本橋大伝馬町の武井栄一氏(その後泉三郎を襲名)のお店が敗戦直後の同地において中央連絡事務所として復活し、世話係に同氏が就任され開発活動を再開したのです。その後昭和28年から二代世話係に田中治郎左衛門氏が就任し、事務所も日本橋通り三丁目の同氏宅に移転しました。三代世話係に井上道三郎氏が就任した昭和34年からは日本橋富沢町の金亀糸業(株)様内に事務所が置かれ、以来、金亀糸業様には、途中東日本橋一丁目にビルを移転されてからも事務所を無償で提供されました。その後、諸事情により東日ビルに移転して今日を迎えたのです。

日本橋事務所 今昔⑤

本年7月は日本橋事務所にとって事務所の移転のほか、大きな出来事が二つありました。 一つは「日本橋」に関する報道と、二つ目は聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が逝去されたことです。7月21日の産経新聞朝刊の一面トップに『日本橋首都高を地下移設景観改善へ都が検討東京五輪後の着工を目指す』という記事が掲載され、翌22日の同紙に『日本橋「首都の顔」再生国交省と都首都高地下化を発表』と、今までの経緯が記事になりました。今から18年前、私の久松(現日本橋)中学校の同級生立石晴康前都議(日本橋維持員)から「日本橋地域ルネッサンス百年計画委員会」への参加要請があり、幹事の一人として参加しました。以来同委員会の活動は年々充実し、あとは首都高地下化が念願でしたが民主党政権のとき「仕分け」に遭い、実現は絶望かと思っていました。前述の通り「日本橋」は当事務所の名称の原点ですから今回の報道はまさに快挙です。(以下次号)

⑥日野原重明先生のおもいで

聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が7月18日に百五歳で逝去されました。日野原先生と初めてお会いしたのは20年前の平成9年7月21日、私が代表世話人の時、ロイヤルパークホテルで開催した日本橋事務所開設50周年記念感謝の集いでした。日野原先生は矢吹和重元区議(当事務所維持員)のご尽力で急遽出席されることになり、第一部の地域や行政への感謝式のあと、第二部の廣池理事長の記念講演の時お見えになりました。講演終了後、来賓控え室で廣池理事長ご夫妻とご歓談の後、第三部の祝賀会で素晴らしいお祝辞を頂きました。8月には先生のご希望で研究所を訪問され、11月には聖路加看護大学講堂で日本橋事務所記念講演会の講師としてご講演頂き、その後も研究所の大講堂で本部主催や東京都すみれサークルの講演会、横浜事務所の大講演会にもご出講頂く等、モラロジーに深いご理解を示されました。今回の訃報に接し、今までのご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈りした次第です。

⑦中野事務事務所の維持員研修会<

 9月9日、東京中野事務所の維持員研修会に出講しました。事前打ち合わせで、同事務所が3年後に開設50周年を迎えるので当時の日本橋の取り組みを話してほしい、との要請で20年前の資料をまとめてお取り次ぎしました。今、改めて振り返ってみますと、よくこれだけのことが実行できたな、という思いで一杯です。平成8年度の事務所『年間活動計画』には50周年に関する記載は何もなく、期の途中で先輩が来年50周年ではないか、と言ったので、本部に伺い調べてもらったところ、平成9年7月24日が50周年、ということがわかり、それから準備を始めたのです。私は代表世話人でしたが、先輩方がまず、本部のご指導を仰ぎ、短時間のうちに基本方針などをまとめていただきました。そのポイントは、社会性を考慮した「地域・行政への感謝」と、「モラロジー事務所としての精神伝統への報恩、先人先輩方への感謝」をきちんと区分した記念事業と行事等を計画することでした。

⑧日本橋事務所開設50周年(1)

 19年前の平成10年6月2日に先輩達と廣池理事長に日本橋事務所開設50周年記念年度1年目終了のお礼とご報告に伺った時の資料を見ると全体像がわかります。平成9年度から2年間を記念年度とし、実行委員会(責任者長田耕三=敬称略・以下同様)を設置し以下の事業と行事に取り組んだのです。[記念事業]①記念報恩=三年間で一千万円目標(大久保定七)、②記念受講=二年間で百名目標(渡辺幸蔵)、③記念誌の発行(平和田晃)、④記念キャッチフレーズとシンボルマークの募集(井上照悟)、[記念行事]①6月21日・伊勢神宮参拝(長田耕三)、②6月22日・女性部運営の講習会(木村静江)、③7月6日・本部における記念感謝式(町田五兵衛)、④7月21日・ロイヤルパークホテルにおける記念祝賀会(増田勝彦)、⑤10月八日と十年二月十三日・シニアユース(青年部)主催講演会(野本廣之)、⑥11月21日・日野原重明先生講演会(増田勝彦)、⑦地区別講習会(三地区各総務)

⑨日本橋事務所開設50周年(2)

日本橋事務所開設50周年の最重要行事は、本部のご指導も受け「諸伝統への感謝とお誓いの場」の開催と位置づけて三回に分けて行いました。(一)平成9年6月21日、国家伝統への感謝のため伊勢神宮を十六名で正式参拝。(二)7月6日、本部で精神伝統への感謝とお誓いのため記念感謝式を開催。(参加者70名)。①総合案内所に集合後、学祖の墓前で献花・礼拝、廣池家墓所に礼拝、霊堂前で先人・先輩に献花・礼拝。②麗澤館に移動し記念感謝祭を挙行。祭主の私は生まれて初めて祝詞を奏上しました。全員玉串奉奠後、山本恒次先生の記念講話拝聴。③会員会館二階にて記念式典開催。日本橋維持員の物故者へ感謝・慰霊の黙祷、政木常務理事の理事長メッセージの代読とご挨拶、私よりお礼のご挨拶及び記念事業の目録贈呈。④三階の会場で記念会食。松浦部長のご挨拶と乾杯後、各部代表による決意発表、全員で「星空のかがやきに」を合唱後、閉会。きびしい暑さの中での感謝式も無事終了しました。

⑩日本橋事務所開設50周年(3)

日本橋事務所50周年3回目の「感謝の集い」は、平成9年7月21日、中央区のロイヤルパークホテルで、地域や行政への感謝のため開催されました(ご来賓五十四名・会員百二十五名出席)。[第一部・感謝式]は開会後、国歌斉唱、木村代表世話人挨拶、ご来賓紹介、矢田中央区長と喜多川区議会議長のお祝辞、矢田区長を通じて中央区社会福祉協議会へ寄付金贈呈後閉会。[第二部・記念講演]は廣池理事長が講師となり、テーマ「モラロジー教育のめざすもの」を講演していただきました。[第三部・祝賀会]は会場を移し、立石都議会議員、日野原聖路加国際病院理事長のお祝いのご挨拶、倉橋社会福祉協議会会長の乾杯のご発声で祝宴に入りました。途中、祝い囃子やエレクトーンの演奏等があり、中じめ後、「ひびけ世界の荒磯に」を合唱してお開きとなりました。出席者には記念品として学祖遺墨「至誠無息」の複製と『日本橋モラロジー事務所沿革史』が贈呈されました。(2018/01)

⑪日本橋事務所開設50周年(4)

本橋50周年の記念誌をロイヤルパークホテルでの感謝式で参加者に贈呈することに決まり、平和田晃編集長のもと、準備期間が短いためカラーの『記念誌』ではなく『沿革史』として作成されました。編集方針を「温故知新」とし本文の冒頭に廣池理事長の「沿革史発刊に寄せて」を掲載させていただきました。次に「事務所沿革史発行に寄せて」を代表世話人の私が、続いて、日本橋事務所の沿革史を大久保定七参与、「開所50周年を迎えて」渡辺幸蔵参与、「絵との新しい出会い」栗田行雄参与、「新たな決意を」町田五兵衛参与が執筆し、以下、早川義裕高壮年部、増田勝彦教育者部、武井久枝女性部、野本廣之青年部、宮本輝雄少年部の各代表幹事が各部の活動と決意表明を、長田耕三実行委員長が「新しい時代へスタート」と題してまとめていただきました。そして、昭和十一年1月から平成9年3月29日までの沿革史、昭和六十年からの学園訪問記録、最後に当事務所の物故者名簿を掲載しました。(2018/02)

⑫生涯学習セミナー

来る5月24日~25日に開催される生涯学習セミナーのキックオフが3月16日に行われ、セミナーに出講する船橋事務所の野本廣之講師より講話がありました。野本講師は現在、会社経営の傍ら、全国のセミナーや企業講演会に年間十六回も出講するほど活躍中ですが、もともと日本橋事務所の維持員でした。日本橋50周年の『沿革史』にも青年部代表幹事として「青年部の歩み」を記述しています。当時、日本橋青年部は「日本橋シニア・ユース」と称し、一事務所の青年部では考えられないような活動をしていました。特に、年に一度、有名な経営者を招き、ロイヤルパークホテルで講演会を開催していました。木野親之、鍵山秀三郎、中條高徳先生たちが野本氏たちの熱意に共鳴し、ほとんどボランティアで出講していただいたのです。さらに、先生方を廣池理事長にご紹介したところ理事長もたいへん喜ばれ、時には、貴賓館で会食していただき、私も代表世話人として同席しました。(続く)(2018/03)

⑬青年部活動

平成4年2月、途中交代の代表世話人が本部に集められ、研修会が行われたので私も出席しました。その時、廣池理事長が講話の終わりに「皆さんは是非青年を育ててください」と結ばれたので、先輩方の了承を得て平成四年度の日本橋事務所重点目標を「青年層の開発・育成に全員で取り組みましょう(3年間を活動期間とします)」と決め、発表しました。しかし、初年度はほとんど結果は出ず、2年目に入り、年度末の3会場同時開催のAタイプ講習会打合わせ会で、京橋・月島地区は婦人対象、東日本橋地区は一般対象、日本橋(室町・八千代も合同)地区では青年を対象とすることが決まりました。しかし、日本橋地区だけでは青年のスタッフが不足したため、他の地区に青年の応援をお願いしたところ快く協力してもらい、実質的に青年部の運営になりました。講習会も無事終了し、このことが青年部に大きな力を与え、3年目には、青年部単独の講習会を開催し、その後の活躍の基礎を構築できたのです。(2018/04)

⑭第1回の会員総会

4月20日、第19回会員総会が行われ、各議案とも承認されました。第1回の会員総会は今から18年前に開催されたわけですが、それまで日本橋事務所は「協力費」だけで運営していましたので一般的な「総会」を開催する必要はなく、毎年4月の運営委員会で総会と同じ内容の審議を行っていました。しかし、平成10年に本部方針で事務所は維持員だけでなく、モラロジーの学習と実践を志す有志も交えて運営し、地域社会に貢献し、より社会に開かれた事務所をめざして「会員制度」で運営するように指導があったのです。そこで代表世話人の私は早速「活動推進委員会」に諮り、当時の日本橋の状況にあった会員規約や会費を千円にすることを決め、平成11年1月30日付けで、まず全維持員に加入を勧め、次に会員にならなかった維持員や維持員以外の方々を対象にして加入推進を行いました。そして平成12年5月12日に東実健保会館5階会議室で第1回総会を開催したのです。(2018/05)

⑮温故知新

四月の会員総会で大久保代表世話人が「平成30年度の事務所活動方針」を発表し承認されました。方針のはじめに「事務所開設75周年に向かって」が掲げられ、4年後の記念すべき周年行事へのスタートを切りました。小欄は『日本橋沿革史』の編集方針である「温故知新=故(ふるき)きを温(たず)ねて新(あたらしき)を知(し)る」を念頭において記述しています。辞書を引けば「ふるい物事を究めて、新しい知識や見解を得ること」とあり、単に過去のことを調査・記述するだけでなくそこから時代背景、経済状況の違い、不変と可変を見極め、今後のあり方を導き出すことだと思います。研究所から昭和52年に発行された写真集『温故知新』-廣池博士の足跡をたずねて-に現在脚光を浴びている「三方よし」の記事が掲載されています。昭和4年3月、山口県戸田での出来事を写真とその解説で、廣池博士の教訓「自分にも相手側にも第三者にも都合のよいように考え、行うことが最高道徳」がよみがえります。(2018/06)

⑯創立者の「志」

昨年6月4日、モラロジー研究所は[創立百年への誓い]というパンフレットで『創立者の「志」に立ち返り百年に向けてスタートします』と発表しました。創立者の「志」について、「提供できる価値の深まり」と「対象者・課題領域の広がり」により「道徳で人と社会が幸せになる」と図示しています。そして、「一、多くの人が共感し参加できる機会を提供します」と「二、現代の諸課題の道徳的解決に取り組みます」と掲げています。また、私たちモラロジー協議会・事務所のめざす方向として、「家庭・親子へのアドバイスと累代教育の推進」「女性、主婦、母親としての情報交換とサークル作り」「学校における道徳教育への協力支援」「道経一体経営に基づく永続企業づくり」「高齢者介護などの課題への取り組み」「青少年層に対するアプローチ」(順不同)を表示しています。これらは4年後に迎える日本橋事務所開設75周年への重点目標策定の指針になると思います。(2018/07)

⑰事務所の行事・運営(一)

日本橋75周年に向けて参考になる小冊子があります。それは一昨年の暮の地方責任者・リーダー研修会で配布された『協議会会長・代表世話人委嘱に際する確認事項』(昨年4月に改編された維持員研修会資料『いのちの着眼点―日孜孜―』の第二部にもほぼ同様の内容が記載されています)です。その中の「事務所の行事・運営を考える―よき協力者とともに地域の課題にかかわる―」という部分に、事務所の課題はいろいろあり、「(前略)それぞれの地域性、歴史、規模、幹部の考え等により解決方法もさまざまですが、地方責任者更改の時期に、関係者の皆様としっかり現状の課題を確認し、3年後あるいは6年後の更改時期、ひいては2026年の研究所創立百年のときにありたい事務所像を描き、そのために今何をなすべきかを考える機会を作ることが大切です。その際、事務所(内向き)からの発想だけではなく、『地域社会とともに』という意識の広がりが必要です。(以下次号)(2018/08)

⑰事務所の行事・運営(二)

(前号より)人格的に素晴らしい方、真摯に地域の課題に取り組んでいらっしゃる方が多くいらっしゃいます。そのような方と連携・協力し、事務所の応援団になっていただくためには、と意識するとき、新たな展開や広がりが見えてきます。」そして次のような項目について事務所の行事・運営を関係者で再考することを勧めています。 「事務所力」を確認する
(一) 事務所は何のためにあるのでしょうか。その存在意義からみて、今の事務所の力はどうでしょうか。よりよき協力者を迎え入れる雰囲気があるのでしょうか。
(二) 維持員の現状(年代と世帯)
・維持員の現在年齢と将来予測(3年後、6年後の姿)を書き上げる
・維持員と事務所との距離(心的、時間的、居心地との実際の距離)を書いてみる(以下次号)(2018/09)

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