日本橋モラロジー事務所

NIHOMBASHI

MORALOGY

「摩訶」

Akira.Ohkubo 先日、4年ぶりに薬師寺録事・喜光寺小林澤應副住職の法話を東京別院で聞いてまいりました。澤應さんの久しぶりお話は般若心経の第一講で摩訶般若波羅蜜多心経の「摩訶」についてでした。摩訶とは優れていること、大きいこと、偉大なこと。そして、釈尊のこの偉大な願いは「健康は最上の利益(りやく:こうふく)、充足(知足)は最上の財産(たから)、信頼は最上の縁者(えにし:因縁)、心の安らぎこそ最上の幸福なり」であるそうです。健康で足るを知り人から信頼され、心に安らぎを持つことが本当の幸福だと教えられました。

代表世話人のコラム

令和5年1月『街の伝統』

12月3日に日本橋にある中央区立久松小学校が150周年のお祝いを致しました。私が在学中に90周年を迎え、今年150周年そんな時期に小学校に居られることに偶然を感じます。久松小学校は明治5年学制公布の翌年に開校。私の在学中の60周年前の周年記念には昭和天皇皇后両陛下が、その後も今上天皇皇后両陛下・浩宮さま・秋篠宮さまご夫妻・常陸宮さまご夫妻など、10年ごとにつぎつぎご臨席を賜っていきました。一小学校に御皇室の方々にご臨席いただけることは大変なことだと思います。大東亜戦争時の東京大空襲でも建物が残り、その建物で私は小学校生活を送りました。150年前の1873年は我が国では富国強兵が掲げられた時代。アメリカではまだ1865年に南北戦争が終了し、1891年にバスケットボールが考案された時代。そんな時代に開校した本校は当初「第二番小学」というナンバースクールでした。今回の周年記念には秋篠宮皇嗣同妃両殿下にご来校いただきました。皇嗣殿下からのお祝いのお言葉の中に「学校・保護者・地域の方々のご尽力に敬意を申し上げます」とありました。この学区域の先人先輩が築き上げた伝統に対して、皇嗣殿下にお認めていただきました。本校は23区の人気の公立小学校区ランキング第12位と言われており、これまで学校・保護者・地域の方々が良い教育環境を作り上げてきた結果だと思います。私たち兄弟が卒業、甥や姪が在学中は越境入学者が多くいましたが、現在では学区域の児童ばかり。学区域の地域社会環境が大変良いのだと思います。一昔前には東京のある地域の中学校で階上から机が落ちてくるなど、荒れていた地域もありました。小学校・中学校の教育が地域社会・環境にどれだけ影響を及ぼしてきたか。私の参加している勉強会で、参加者のマンションの郵便受けには名前がありませんと以前お聞きしました。10月に娘が引っ越したマンションには郵便受けに皆さん表札があるそうです。小・中学校が落ち着いて安全な地域の社会基盤は、生活している人々の道徳心に関係しているのではないでしょうか。このよき町の伝統を次世代に継承したいものです。

令和4年12月『さまざまな正義』

人はそれぞれ生まれた環境や教育によって自分の正義をもっています。例えば、夫婦間においても、自分の正義は間違っていないと思っているから相手を責めてしまう。若い頃はこの事が理解できていないからよくケンカをしてしまいました。結婚前に母が言った言葉が思い出されます。「違う環境に育った二人が上手にやっていけるわけがない。だから、そこからスタート。」れいろう10月号には「人にはそれぞれ立場や考え方によってちがう正義があり、だれもが自分を正義だと思っている。大切なのは、自分ではないだれかの立場で考えることなんだ。その視点は、君にある力をあたえてくれる。それは、一つの物事をいろんな角度から考える力」とあります。日本橋事務所有志が学んでいる分割概論講座第6章に人間的正義と宇宙的正義という言葉が出てきます。特に、この宇宙的正義という言葉を理解することが難しいようでした。私は以前こんな説明をしました。テレビ番組のウルトラマンに出てくる怪獣とウルトラマンとの戦い。3分間の間に怪獣をやっつけてしまうのがストーリー。ところが、事故によって宇宙を漂流していた宇宙飛行士ジャミラが極限環境の星で、変貌を遂げて怪獣化して地球に戻ってきた。ウルトラマンと戦いジャビラは敗れたが、人間が変わってしまったジャビラを元の星に返した。つまり、ウルトラマンは人間的正義の考え方で悪には懲罰をあたえましたが、宇宙的正義の深い思いやりで元の星に返しました。「お天道様が見ている」とは、昔から日本に言い伝えられている言葉です。誰も見ていなければ、悪い事をしても良いというのは間違いです。どんな時でもお天道様がみているから、良い行いをしなければなりません。このお天道様というのが宇宙的正義と言えるでしょう。つまりお天道様の意志は、万物を生成化育(自然の摂理)する慈悲であり、真理と公平を求める宇宙的正義を実現しようとする働きです。何か他者との問題が起きた時、慈悲の心でいろいろな角度からその問題を見ると他者の正義も理解できるものです。それこそが宇宙的正義の実現だと思います。

令和4年11月『最後の言葉』

我々廣池博士の門人としては博士の最後のお言葉が非常に重要に思えます。谷川記念館初代責任者鷲津邦正先輩が博士との会話の中で『廣池博士がある時、「聖人の慈悲はすごいなあ。この温泉のように汲めども汲めども湧き出ずる。それに引き換え努力しているが、わしは人造の慈悲じゃ!聖人はすごいなあ」疑問に思った鷲津先輩は早速博士に尋ねられた。「私たちは何を目指して生きてゆけばいいのでしょうか?」博士は答えられた。「聖人やワシの真似はできんぞ!お前たちはお前たちの自分の人生の階段をコツコツと歩め!聖人もワシもお前たちも目指す方向は同じじゃ。慈悲心の実行じゃ。」』この言葉は聖人と言われる釈迦の最後の言葉と同じ意味だと思います。80歳のお釈迦様が今まさに亡くなろうとしているときに,弟子のアーナンダが「お釈迦様が亡くなってしまったら,その後,私はどうすればいいんでしょうか。何を拠り所にすればいいんでしょうか」とお釈迦様に尋ねました。それに対し,お釈迦様は「自灯明・法灯明」とおっしゃった。この言葉の意味は、自然の法則を灯明として自らの心に火をつけなさい。つまり、自然の法則にしたがって人生の階段を歩みなさいという博士の言葉と同じ。また、小説家の夏目漱石も、晩年は「則天去私」の境地に達したといわれます。漱石は自我と自我との対立に悩みながら、心理学や禅を研究しながら、創作を続けていました。晩年の漱石の境地は「則天去私」という言葉で表現しています。「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないという事になる。自然に任せておくがいいという方針が最上だという事に帰着する。」無私(無我)にて動くとき、天,おおいなる自然の意志の働きが出るということだと思います。まさに自我没却・神意同化です。悟りを開かれた人たちの最後の言葉は共通しています。モラロジーをしっかり学び自然の法則に従い、自分の心に火をつけて道徳実行をし続ける。最後の言葉をしっかりかみしめたいと思いました。

令和4年10月『宗教問題』

旧〇〇教会と政治家の問題が大きく取りざたされています。この団体は韓国で創設され宗教教学ではキリスト教系の新宗教とされているそうです。現状のマスコミの報道を聞いていると何か宗教全般が悪いような印象を持ってしまいがちです。これは困ったことです。モラロジー概論には日本人の祖先は、古神道(自然崇拝・祖先信仰)という土台の上に仏教、儒教、道教の智慧を受け入れ、日本独特の文化と道徳を形成してきました。ときには、一つの系統だけをよしとする排他的で非寛容な心も現れましたが、それはけっして優勢とはなりませんでした。つまり、日本人には祖先から信仰心があり、木や岩、そして山等に対しての自然崇拝の習慣を持っていました。有名な話ですが新渡戸稲造の武士道に「ドイツ留学中に尊敬するベルギーの高名な法学者エミール・ド・ラブレー氏宅に招かれ、逗留していたときの思い出を書いている。ラブレー氏と散歩をしながら、日本の学校では特別な宗教教育がないことが話題となる。欧米では、キリスト教文化の中、宗教教育がごく日常的に行われているから、ラブレー氏は「宗教教育がない日本で、どのように道徳教育をしているのか?」と問われ、即答できなかった。しかし、稲造はよくよく考えていく中で、少年時代に学んだ道徳上の戒めが、学校で教わったものではなく、そのもとに「武士道」があることに気づくのである。」つまり、欧米では道徳を教えるのは宗教であって、考え方の基本に宗教があるということ。我が国では武士道が物事の善悪を教えていたということ。ではその武士道の源とは仏教と神道であり孔子の教えであると稲造は考えた。我々の道徳心の源は仏教や神道に対する信仰心であり、孔子の教えがもっとも豊かな心の源泉であると述べられています。この信仰心は廣池千九郎博士の表現でいう神・自然の法則への信仰であり、村上和雄の言うサムシンググレートです。日本人の心にはこの歴史に育まれた信仰心が必ずあると信じています。宗教=信仰心と考えがちですが、私たちの信仰心を大事にしたいものです。

令和4年9月『民主主義国家の本質』

私の住んでいる墨田区はコロナワクチン接種が早く、6月23日には第4回目を打つことができました。これは山本区長のもと、新型コロナウイルス感染症を契機にあらゆる分野でDX(デジタルトランスフォーメーション)を強力に推進されてどんどん先に進んでいるお陰だと感心しています。しかし、ニュースに出てくる政治家は如何なものでしょうか。上に立つ者の品格が疑われることばかりで、すごく残念に思います。幹堂理事長のブックレット「民主主義とモラル」に「民主主義というのは国民一人ひとりのモラルが問われるのだということです。今日申し上げたい結論も。まさにここに尽きます。民主主義社会は、自由と平等が尊重されますが、それが本当に尊重されるためには、一人ひとりの義務、責任もまた重くなり、個々人のモラルとか品性がますます問われることになりましょう。学祖は、昭和初期の段階ですでに、このような民主主義社会の問題点を指摘し、警告をしていたのだと言えましょう。例えば、封建時代に政体の善し悪しは別として、徳川吉宗、あるいは上杉鷹山のように一人の立派なリーダーといわれる人が登場して善政を布けば、良い政治が行われ、国民が安心して暮らすことができる可能性が十分にあったのだと言えます。ところが、現代は民主主義の時代ですから、われわれの責任において政治的リーダーを選ばなくてはなりません。ですから、われわれが不道徳であったり、政治に無関心で易きに流れるということがあっては、立派なリーダーが選ばれず、政治は腐敗し、民主主義は衆愚政治(自覚のない無知な民衆によって行なわれる政治)となってしまうでしょう。」道徳心の無い政治家は道徳心の無い国民から生まれるということです。学祖は聖人の教えに反する民主主義が当時、大変盛んになってきたと書いています。民主主義の先駆者であるアメリカの現状を見ても博士の仰っていることが頷けます。道徳で社会を幸せにするとは道徳心を持った人たちが、道徳心を持ったリーダーを選ぶ。そういう意味で政治に参加しなければならないと感じました。

令和4年8月『前進すること』

7月3日(日)に神田明神の明神会館にて日本橋モラロジー事務所開設75周年記念祝賀会を開催いたしました。来賓には山本泰斗中央区長にお越しいただき、ご講演を伺いました。山本区長と日本橋モラロジー事務所のご縁は平成28年3月(6年前)第75回生涯学習セミナーに当時山本海苔副社長でありました区長様にご講演いただきました。区長は山本海苔の代表取締役副社長から、令和元年に矢田中央区長からの後継指名を受け、初当選。70歳で政界に転身されました。70歳での全く異業種への転身は驚くべきことだと思います。山本海苔店は中央区老舗企業塾に入られていて、当事務所の生涯学習セミナーに打って付けという事でお願いいたしました。この中央区の老舗企業とは100年以上続いている企業でありまして、この後も老舗企業様からご講演をいただいております。お話を伺う中で老舗企業の永続は変化をすることと感じました。現状維持では100年は継続しない。時代に合った変化をしてこそ永続的に続くのだと学びました。その翌週に3年ぶりに友人達と飲み会をしました。昔話にはなお咲かせました。同じ学び舎で学び、教育に関しては同じ考えだった友人。30年以上の環境や仕事の違いで人生に対する姿勢が違ってきたと感じました。私ともう一人の友人は今なお仕事をして、社会と繋がりを持っています。しかし、もう一人の友人は積極的に何かをしようということもなく、退職後を楽しんでいるようでした。変化を求めず現状維持の生活をしているようです。企業も人も同じで、変わろうとしなければ精神の深化がない。現状維持の人生はもったいないと思います。エリクソンの発達課題によると壮年期は次世代に貢献する事、そして、老年期は満足のいく人生だったかを振り返る時期。人生を振り返ったときに、最後まで人様の役に立つ仕事ができたかどうか。自分が変わり深化して満足できる人生だったか。私が大ファンの小田和正の新曲so far so good”の歌詞に「誰かを幸せに出来るとしたら きっと それが 一番幸せなこと」まだまだ、前に進まなければとこの2種間で感じました。

令和4年7月『人生の意味』

モラロジーでは「幸福」とは健康・長命・開運・子孫繁栄と言っています。モラロジーの学びによって幸福になると言い切るのが難しい時代。なぜなら、平成の7年ごろのあの新興宗教が幸福を売り物に信者を集め悪の限りを尽くしたため、学びにより「幸福」になるという事を言えない時代が続きました。しかし今、モラロジーを学ぶことによって幸せになることに確信がもてます。なぜなら、幸福の正体を科学的に分析できる時代が来たからです。樺沢紫苑によると幸福感を感じる脳内物質には主に三つがある。私たちが普段感じる「幸福」はドーパミン、セロトニン、オキシトシンが十分に分泌地されている状態です。セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、ドーパミン的幸福に分類できるそうです。そして、この三つの脳内物質には優先順位がありセロトニン的幸福→オキシトシン的幸福→ドーパミン的幸福の順。セロトニン的幸福とは心と体の健康。オキシトシン的幸福とはつながり・愛。ドーパミン的幸福とは成功・お金。つまり、健康とはモラロジーでいう心の健康、長命は体の健康(セロトニン)。開運は人心開発救済をすることにより運命をよくすること。つまり、他者との関係や繋がりにより、思いやりの心・愛が生まれる(オキシトシン)。そして、成功とは地位や名誉・お金の成功もあるが、モラロジーで言えば、自分の品性向上、最高道徳実行や自己肯定感から自分自身の成功感が生まれる(ドーパミン)。以上のようにモラロジーの幸福感が科学的に証明されてきたと思います。稲盛和夫さんの言葉「さまざまに苦を味わい、悲しみ、悩み、もがきながらも、生きる喜び、楽しみも知り、幸福を手に入れる。そのようなもろもろの様相をくり返しながら、一度きりしかない現世の生を懸命に生きていく。その体験、その過程を磨き砂としておのれの心を磨き上げ、人生を生きはじめたころの魂よりも、その幕を閉じようとするときの魂のありようをわずかなりとも高める-それができれば、それだけでわれわれの人生は十分に生きた価値があるというものです。」

令和4年6月『廣池幹堂理事長先生の旭日中綬章おめでとうございます』

5月15日日本橋モラロジー事務所75周年感謝の集いをモラロジー教育財団記念館にて行うことができました。その際に、廣池幹堂理事長先生の旭日中綬章受章のお祝いを申し上げることができました。2014年(8年前)藍綬褒章を受章。長年にわたる私学振興への功績が称えられ、今回の受章となりました。維持員として大変喜ばしいことだと思います。また、そんな年に75周年を迎える当事務所の歴史もすごいと感じました。モラロジー教育財団は学祖広池千九郎博士が1926年(大正15年)8月に道徳科学の論文完成し、この日をもって道徳科学研究所創立。今年で96年、あと4年で百周年を迎えます。その間、決して順調に活動ができたわけではありません。昭和16年に戦時体制に入った我が国の状況下、戦争に協力するか否か混乱が起きたそうです。そこで、2代目千英先生は研究所を発展的解消された。平和を願っていた博士のお考えは、戦時下当時、左翼と言われ非難されたと聞いています。戦後の昭和21年2月に研究所が復活。当事務所も昭和22年開設、当時は地方連絡事務所が65か所、地方開発事務所が25か所設置されていたそうです。戦後、戦争責任の一端が行き過ぎた修身教育という評価から、今度はその道徳を推進しているモラロジーは右翼だとの評価になっています。人の心は移ろいやすいものだと驚くばかり。博士のお考えは少しも変わらず、「道徳科学の論文」を元に私たちも一つも変えていないのに社会状況により評価というものは変わるものだと感じました。「道徳」についても同様。道徳を「教科道徳」として学校で指導することが決まっても、道徳観念の押しつけは反対という意見がありました。しかし、最近ではそんな声を聞くこともありません。その反対意見の影響で、教科書の各項目を児童・生徒それぞれが考えるという授業展開をしています。モラロジーの考え方は生き方・考え方を学び確かな標準を得ること(松浦勝次郎)。物事の善悪、心づかい、道徳実行という標準をしっかり持つこと。そして、児童・生徒はこの確かな標準の指導を受けなければ身につかないと思います。早くそんな指導ができる時期が来るといいのですが。

令和4年5月『ならぬことはならぬものです』

以前、小学校3年生のあるクラスで、男子児童が他の生徒に向かって指さしながらひどい暴言を吐いていました。その時、私は小学校3年生がそのようなひどい言葉をなぜ使えるのか不思議に思いました。言葉は発育発達の中で身について行くもので、3年生ぐらいでは親の言葉遣いが影響を及ぼすと思います。この子の暴言は母親が発するような言葉ではないので、父親の影響ではないかと思いました。さて、子どもに対する父親の存在、父性とは如何なものなのでしょうか。妻の発信している子育て知恵袋に「母の上にくさかんむりをつけると「苺」という字です。甘くみずみずしい苺の色、形、味ともに愛される懐かしい母の心を感じさせます、それと対照的に父に草かんむりをつけると「艾(もぐさ)」になります。お灸をすえる役目があるという意味のようなイメージにも感じられます。なんとなく父親の威厳が没落しているような感じがある昨今ですが、家庭教育の中で父親(父親役)が襟を正して「叱る」ことは、子どもに対する大切な愛情の一つと考えます。」民俗学者の宮本氏は「自然に対して怖れかつ敬いつつ子を向かわせるのが父性の最大の任務であり、父親がその任に通常はあった。自然ばかりでなく人に対しても、相手の人間性や社会性を理解させるべく語る。そして、子どもに人間性・社会性が習得されるのにつれて子ども自身にそれらが育っていく。」と述べています。最近のニュースには男性の猥褻行為、性暴力、窃盗やあおり運転などの事件が毎日報道されています。男性がきちんと育っていないと実感する毎日。原因は我々世代から物事の善悪や道徳心という大事な父性が躾ける部分が子どもに影響していないと感じます。長男が小学校5・6年のころ、妻に対する態度が非常に悪かったので夜の10時過ぎに「出ていけ」と追い出した。私の中で小学校高学年。自分で近くの親戚の家にでも行くだろう考えていた。暫くして、妻に帰ってこないのでどうするのと相談された。仕方なく家の周りを探してみると何となく人の気配がしていたので、玄関のかぎを開けて置いたらそのうち帰ってきた。会津藩士・基礎の心得「什の掟」の最後に「ならぬことはならぬものです」と厳格な教戒がある。

令和4年4月『ハラスメント』

先日、知人からこんな相談がありました。「昨日、ハラスメント(人に対する「嫌がらせ」や「いじめ」などの迷惑行為)の相談がありました。いろいろなハラスメントがありますが、今回は「逆マタハラ(妊婦や育児中のパパママの周囲が苦しむ)」です。具体的には、職場の妊婦さんと妊活中の女性から集団で攻撃をされている。この方々から2言目には「私、妊婦ですから」と、仕事をさぼってズルをする、不正に加担するなどの行為があった。そこで、上司に相談し注意喚起をしていただいたところ、マタハラを受けているとなってしまった。問題がすり替わっているので、双方の話はかみあいません。大久保さんが、この相談者の立場ならどうされますか?」さて、モラロジー的にこの問題をどう解決したらよいでしょうか。社会生活をしていると必ず他者との衝突が起きます。他者は他者の正義で人を打ち、自分は自分の正義があるので衝突します。私の若い頃の夫婦喧嘩は正に妻の正義と私の正義のぶつかり合いでした。妻の正義も理解できるのですが、私の性格で謝ることができず苦労しました。職場では40代の頃。高校の入学式・卒業式に国旗掲揚・国歌斉唱の指示が下りてきました。職場会で起立のうえで国歌斉唱を強制されることに反対という事にまとまりました。そこで私は手を挙げて、自分は父からの教えで「起立して斉唱します」と。当日、教員で同じ行動をした先生は数名でした。この時の私の考えの元は「大勢の流れに順応しつつ真理を守る」という博士の教えでした。国家伝統に対する姿勢は強制されるものでなく、自分の品性から出てくるもの。数年後、起立のうえで国歌斉唱が当たり前になった時に、この反対していた人たちは声を上げて反対と意思表示しませんでした。この程度の考えなのかとがっかりしたことを覚えています。自分の中にしっかりとした真理をもっていれば、逆マタハラがあっても、マタハラだと言われても心はざわつかないと思います。上司に間違いを指摘したことや、間違いを指摘されてマタハラだと騒がれても、人の過ちを正す行為と考えれば少しは心が落ちすくのではないでしようか。

令和4年3月『節分』

節分の翌日に小学校のあるクラスで「昨日豆まきをしましたか」と聞いたところ10名程の子供が手を挙げました。そして「恵方巻を食べた人」と聞いたところその倍の子供が手を挙げました。思わずあれは関西の風習で関東ではやらなかったのだと言ってしまいました。その後、子どもや孫と食事をした際に、関西で育ったお嫁さんが「恵方巻の意味も知らず食べることだけやっているのは可笑しい。豆まきの意味や恵方巻を食べる意味を知らなければいけない」と言っていました。もう一つ気になることは小学生のお書初めを見ていると昔よりお習字が下手になっているような気がします。小学生の時期に英語を学ぶこともいいかもしれません。それより、字をきちんと書けることの方が重要だと思うのです。コロナ禍でタブレットが配られタッピングが上手になりローマ字打ちで文章を早く打てます。ノートを書くよりタブレットを使って文章を書き提出するようになってきました。また、数時間のソロバンの授業で親指で一玉を上げる親指の動かないことに驚きました。自国の伝統文化を学んで身につけることによって、自らの歴史や文化に関して「誇りを持つことができる」と生方徹夫氏が著書の「伝統文化の心」で述べられています。一年の始まりお正月飾りは歳神様を家にお迎えするために行うもの。門松や注連飾り、鏡餅を飾る。春の七草は豪華なおせち料理やお酒で疲れた胃を回復させ、体を冬眠モードから目覚めさせてくれる。鏡開きは楽しみでした。小さく割ったお持ちを揚げ餅にしてもらい美味しく食べています。そして、節分です。豆まきには「鬼を打ち払う」意味と、「豆を投げ与えて恵み、静まってもらう」という、2つの意味が込められて行うもの。わが家はヒイラギをとイワシを玄関に飾ります。ヒイラギは悪霊を寄せ付けない、イワシは焼いたときの臭いで鬼を遠ざける。そして、3月3日のひな祭り。わが家は夫婦二人の生活でも、昨日妻は雛飾りを飾りました。先日、本部訪問をして麗澤館にご挨拶した際は、廣池家のお写真の横にはお雛様が飾ってありました。伝統文化を大事にすることが日本人のアイデンティティです。

令和4年2月『3回目のコロナワクチン接種』

第3回目のコロナワクチンを1月23日に接種することができました。いち早い接種には墨田区の行政の方々並びに病院関係者には感謝申し上げます。インターネットでの予約ができてから一週間が逆に不安になりました。この一週間でオミクロン株の感染者が激増し家庭内感染が増えたこと。学校では学級閉鎖や学年閉鎖が出ていること。通勤の混雑した電車内で感染しないか。学校で勤務している私には児童や生徒が感染していないか疑心を持つ一週間でした。ある児童が前日休んで母親と病院に行くという連絡がありました。ところが当日は母親のみ通院し、児童は学校に登校、私はその子の指導を一日していました。もしかしてコロナに感染して通院したのではないかと不安がよぎりました。その時は自分の運命を信じるしかないと心を落ち着かせていました。教育関係にいる私たち夫婦はコロナに感染したらどれだけの人に迷惑をかけるか。自分が原因でクラスターを起こしてしまう。ワクチンは自分のためでもありますが、他の人が不安や心配、迷惑をかけないために接種する気持ちで一杯です。天皇陛下の新年のビデオメッセージに、この1年も新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい,多くの方が感染し亡くなられた方々に,深く哀悼の意を表しますとともに,大切な方を亡くされた多くの方々に,心からお見舞いを申されています。また,これまで,献身的に治療に当たってこられた医療従事者の皆さんの並々ならぬ御尽力に改めて敬意と感謝の意を表されています。そして、今一度,私たち皆が,これまでの経験に学び,感染症の対策のための努力を続けつつ,人と人とのつながりを一層大切にしながら,痛みを分かち合い,支え合って,この困難な状況を乗り越えていくことを心から願っています。そして,新型コロナウイルス感染症の感染拡大が収まり,皆さんと再び直接お会いできる日が来ることを心待ちにしていますと申されています。最高道徳を学んでいる私たちは、陛下に安心していただけるような行動をとることが重要。そのために、日々の行動には十分注意したいものです。

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